演技論
お芝居をしていた。
※まずはじめに、ぼくは人様に語れるような演技論なんていうものは本当にもちあわせていない、ということを申し添えておきます。
さて、そのお芝居をしていたころのはなし
ぼくはそもそも自分が自分を演じていると思っていて、それ自体はそこそこあるあるだと思うのだけど、それでもしかしたら"演技"もできるのかも、と思っちゃった。はずかしー(これもきっとあるあるでしょう)
……
今日のブログは本当に長いので
最終的に至った結論を先に書いておこうと思います。
そこから先はどうぞお暇な方お進みください。読んでくださってありがとうございます。
"ちかごろこんなことをよく考えていて
今日は年内で生活のためのお仕事をやめることが決まった日で
ぼくはぼくを生かしていかなくてはならなくて
それでたぶんお姉ちゃんのことを思ったんだと思う
ぼくはお姉ちゃんがいまでも好きでかわいくて守りたくて守ってくれてありがとうと思っています!でもぼくはもう大丈夫だよ!ありがとね!"
……
それで、お芝居の世界に入ってまず知ったことは
自分は演じていたのではなかったこと
適切な言葉が見当たらないんだけど、(なのでちょっと偽悪的になっちゃうけど暫定的に、)
いつわっていた、に近い
そして、"演じる"は"いつわる"の対極にあるらしかった
まじで真逆だった
びっくりするくらい対岸にあってその川を全然渡れなくて渡ろうとすると透明な高い壁に体当たりして都度跳ね返される、みたいなことを繰り返し
繰り返す中で、
いつわっている(た)自分をぼろぼろぺりぺりはがそうにも
どうやらそれにしちゃいつわり期間が長かったらしいことを知った。
結構てごわかった。いまもてごわい。
それでもしばらくはなんか、天啓みたいなのとか物凄いマーベラス体験やふとした小さくも革命的なきっかけとか、わたしの中の才能が突如おどろきの大開花!
などが起こって
それ(=いつわりの自分)がごっそーり剥がれおちるパッカーン新しい私!みたいなのを妄想したけれどそんなことはなく
そうこうしているうちに、
お芝居はわたしにとって修行だ、このこびりついたいつわりくんたちを取り除く修行だ、と
思うようになりそれはいつしか
お金をいただきながら舞台の上で修行をするのは失礼では?みんな私の人生修行にお金払いたいわけじゃなかろう?
という強い思いになって、
やめた。
人生修行と知っていてか、はたまた、
はがれかけやこびりついて離れないいつわりくんをベロベロとひきずり纏いながらも奮闘しているわたしの表現のどこかになにかを思ってくれる方が少なからずいらしたのか、
なににせよ
応援してくださっていた方々には本当に感謝しています。
感謝していて、だからこそ申し訳なくて、今まで言えなかった。
やめたといっても人生死ぬまで何があるかわからんので離れた、
という言い方に変えるとして
なぜ離れたかというと
離れるまえに、
うたのお仕事をもらえる機会があって
その時に
わたしはうたをうたっていれば
舞台の上にいても、いつわらないらしい
と知れたからなんです
んー
なんかなー、
いつわるってやっぱ言葉つよいんだよな
いつわる、っていうよりは
自分になる、って感じで
ふだんは自分で自分に なってる んだけど
うたっているときは
自分で いる
ことができる、ってかんじ
お芝居、演じることに関して、
わたしのからだにくっついているわたしを
とりのぞいてから挑まなければと思い
それはもういまのところ
来世に期待だなと思っていて
(ことし6月に舞台に立っていた分際で何を言ってるのこいつと思われるかもしれませんがその話はまたの機会にさせてくださいませ)
わたしからわたしをとりのぞいた先にある
"演じる"という行為への魅力は
今も感じ続けている
自分にはあまりにもできないから
だけど多分だけど少しずつ少しずつ近づいていっているから
なんでこんなことを
今更いうのかというと
(今更=わたしのそばにいてくれるひとはよく知ってくれていると思うが、結構まえからこんなことをいっている。だしこういう内容の話自体あらたまってブログにせんでもまぁそのへんにころがっとるよなとも思う)
めちゃくちゃ貼り付けてしまった、どうしよう全然はがれない、なんとかして元通りぴかぴかにしたい、
みたいな感じだったのが少しずつ緩まって
やっぱり元通りにはなってないしというかそれは無理だし、はがし取ろうとした摩擦で黒ずんだり毛羽だったりもしてるけどなんか大体いいかんじに馴染んできたからとりあえずこれが今のじぶんってことでいっか
くらいの感覚に最近おちついてきて
これは結構あたらしい変化だったのでメモしています。
さっき、
ふだんは 自分になる
うたうと 自分でいる
って書いたけど、ふだんからわりと
自分でいられるようになったんだよなー
これはもしかしたら、うたっている時間が
ながくなったことによる変化かもしれない
そうだとしたら嬉しいな
人間なにごとも慣れなのかも。
自分がいやすい状態でいられる場所を
自分でえらんで吸い寄せられていく
もちろんそれを叶えるにはいろんな条件が必要で
だれにでもそれができるわけではない
だから自分はいまそれをなんとかかんとか
やらせてもらえていて、
なんというか
話ちょっと変わるし戻るけど
いつわりくんとぼくが呼んでいた子たち
本当に必要だったんだよ
ゴミみたいに摘んで剥がして捨てたいわけじゃないねん
感謝してる
あのときのぼく、ぼくたちには必要だったから
いじめられている弟を守ってくれる頼もしいお姉ちゃん、みたいなイメージ
いてくれてありがとう、ぼくはもう大丈夫
って最近よくおもう
ふとからだにくっついたそのかけらを見つけたら、大切にとっておいて、たまに身につけてパワーをもらったりする
そういう関係に今はなれている
話を戻すと、
だから自分はいま自分が心地よい場所を
選べていること
それを実現できるために起きている事象のすべてに
ありがとうと思っていて
なによりもその心強いお姉ちゃんみたいな存在だったもののかけらたちに
ありがとうと思っている
お姉ちゃんのことを思い出すと、
お芝居のことを思い出す。
ちかごろこんなことをよく考えていて
今日は年内で生活のためのお仕事をやめることが決まった日で
ぼくはぼくを生かしていかなくてはならなくて
それでたぶんお姉ちゃんのことを思ったんだと思う
ぼくはお姉ちゃんがいまでも好きでかわいくて守りたくて守ってくれてありがとうと思っています!でもぼくはもう大丈夫だよ!ありがとね!
この思考がはじまった時刻の記録
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